山田野演習場とは、明治時代に旧陸軍第8師団が兵士の訓練をするために岩木山の北麓に設置したもので、敷地は5000ヘクタールを超える広大なものであった。
なお、記事の作成に当たっては、「山田野-陸軍演習場・演習廠舎と跡地の100年-」を一部参考にしている。(上の地図の演習場の範囲も同書を参考にしている。ちょっといい加減だけど・・・)
演習場の北側には山田野廠舎(演習の際に兵士が宿泊する施設)が設置され、兵舎12棟(1棟当たり200名程度収容)のほか、将校宿舎、衛兵所、炊事場、風呂場、酒保(売店)、厩舎などの建物が建設された。
上の空中写真は1948年にアメリカ軍が撮影したもので、建物もまだほとんどが残っているように見える。
戦後は、演習場の跡地は開拓地となり、現在は広大な農地が広がっているが、山田野廠舎の建物を含め、演習場時代の遺物が残されている。
さて、スタートは、JR五能線の鳴沢駅。
駅前に停めてある黄色いバイクは、現在の愛車「クロスカブ」。廃線・廃道を訪ねるときは、未舗装の道路が結構あるので、スクーターよりはカブの方が適している。今回は、この広大な演習場跡地をクロスカブで走る。
鳴沢駅は、1925年(大正14年)5月15日、五能線の陸奥森田 – 鰺ケ沢間開通と同時に開業。当時は駅周辺には人家がなかったらしく、山田野演習場のために設置されたといっても過言ではない。
「雨ニモ負ケズ」で有名な宮沢賢治は、この年の9月に、演習に参加していた弟の清六に面会するため、鳴沢駅に降り立っている。
駅舎は、開業以来80年以上も使われ続けたが、2012年に現駅舎に改築され、当時の面影は全くない。(旧駅舎はこちらのサイトに写真がある。)
駅前の道路をしばらく左に進むと、「つがる市」の標識がある。
山田野廠舎へはここを右折するのだが、もうちょっと先まで行ってみると、五能線の踏切がある。
戦後70年、踏切の名前はいまだに「兵舎踏切」である。
かつて、ここに山田野演習場があったという証拠がここにもあった。
ちょうど、五能線の「キハ40系」が来たので、ついでにパチリ。
次回に続く。
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