幻の小湊~函館航路と臨港引込み線

n_image4

地図にマウスを重ねると線路跡が表示されます。 25000分の1地形図「小湊」(国土地理院地図閲覧システムより引用・加工)

1 青函連絡船・小湊~函館航路の存在

第2次世界大戦前の津軽線建設計画と津軽要塞地帯について調査した際に、青函連絡船からも津軽要塞地帯の写真撮影が禁止されていたという記述があり、青函連絡船の歴史について調査していたときのことである。「モデラーズステーション白い船」(現在は存在しない模様)というウェブサイトの青函連絡船年表に気になる記述を見つけた。

その記述とは、(以下抜粋)

昭和21年3月29日 L・S・T 21号仮就航(31日本就航)同22号就航
昭和21年7月1日 小湊L・S・T用繋船岸壁完成 小湊-函館間航路開設 (貨物営業キロ程480キロ)
昭和21年7月10日 小湊及び青森桟橋、札鉄に移管
昭和21年11月7日 L・S・T 21号 小湊第一岸坤に坐礁、12月21日就航
昭和22年8月10日 L・S.T 22号 横浜港で船舶運営会に引渡
昭和23年2月26日 L・S・T 21号 横浜にて米軍に返還
昭和23年10月10日 小湊岸壁可動橋接合試験施行(第六青函丸)
昭和24年7月15日 小湊桟橋 業務中止

戦後のわずか3年間であるが、青函連絡船の小湊~函館航路があったというのである。青森市に住む人間としては、青函連絡船は青森~函館間だけであるという先入観があり、隣町の平内町小湊に一時的にせよ連絡船の航路があったとは想像もしていなかった。
なお、この年表の中で、L・S・Tというのは上陸用舟艇のことであり、連絡船の不足を解消するため、当時のアメリカ占領軍が貸与したものである。このL・S・Tは軽油を燃料としていたが、当時の青森と函館には軽油の補給施設はなく、L・S・Tはなんと神奈川県の横浜港まで往復8日もかけて給油に行っていたという。何とも効率の悪いものであった。そのため、L・S・Tの運航は短期間で終わっている。

2 小湊岸壁建設の経緯

東北本線が青森まで開通する2年前の明治22年、小湊駅と小湊港の間に線路が敷設された。そして、東北本線の青森県内の工事用資材は、すべて小湊港に陸揚げされ、この臨港線を使って運ばれていった。
小湊港が再び注目されるのは、それから約50年後の昭和18年のことである。太平洋戦争が始まった当時、青函連絡船の桟橋は函館側が5に対して青森側が 3であった。当時、青函航路は北海道から本州へ石炭を運ぶ輸送路として重要視されていたが、青森側の桟橋の不足が輸送のネックになっていた。昭和18年 に、青森側の桟橋不足を補完するために、新たに小湊に2岸壁を建設することが決定し、突貫工事が行われた。しかし、昭和20年の終戦とともに、完成するこ となく工事は中止されてしまった。
青函連絡船は、昭和20年7月の空襲によりほぼ壊滅状態となっていたので、アメリカ占領軍は国鉄に青函航路の輸送確立を求め、輸送手段として、昭和21年3月にL・S・Tを2隻貸与した。
国鉄では小湊港に、本来の連絡船桟橋とは別に、海中にコンクリートケーソン2基を設置してL・S・T用の桟橋として小湊~函館航路を開設した。これと平行して、中断していた小湊港の連絡船桟橋の建設も再開れた。
L・S・Tの運航は短期間で終わった(この間の航送車両数は19411両で、結局これが小湊~函館航路の全実績となる。)が、連絡船桟橋の建設は続けられた。
連絡船に貨車を積込むための可動橋も設置されて、昭和23年10月10日には第六青函丸による接岸試験も無事成功したが、昭和24年7月15日に小湊桟橋の業務中止が発表され、桟橋工事は完成を目前にして中止されてしまった。そして、その後一度も連絡船が接岸することもなく、昭和40年3月20日に正式に廃止となってしまった。

3 臨港引込み線

青函連絡船も廃止されてから17年が経ち、ご存知のない方も多いかもしれないので一応説明しておくと、青函連絡船の特徴のひとつに、貨車をそのまま連絡船に積込んで輸送するということがある。連絡船の中に車両甲板があり、そこにはレールが敷かれている。連絡船と岸壁は可動橋により結ばれ、列車がそのまま入っていける仕組みになっている。
この臨港引込み線は、上りと下りの両方向に行けるようにデルタ線となっている。

Cimg1049 これは、青い森鉄道(旧JR東北本線)の小湊川鉄橋である。臨港引込み線はここで青い森鉄道と別れ小湊港へ向かう。

Cimg1052 ここが、臨港引込み線の起点(地図A地点)である。畦畔のように見えるのが線路跡である。

Cimg1053 線路跡は、まもなく未舗装の道路と合流し、線路跡はしばらく道路として利用されている。

Cimg1058 地図B地点で道路は右へ曲がるが、線路跡は直進する。

Cimg1062 農作業のために車の出入りはあるようで、線路跡ははっきりしている。

Cimg1064 線路跡はC地点の直前で舗装路に変わる。道路は上り坂となるが、これは県道の橋梁工事によるもので、線路跡は本来は平坦であったと思われる。

Cimg1066 小湊駅方向からの線路と清水川駅方向からの線路は地図C地点で合流する。

Cimg1070 左側に写っているのが、新雷電橋であり平成3年10月の竣工である。上の地図ではまだ表示されていない。近所の人に聞いたところ、この橋の建設の際に、臨港引込み線の鉄橋が撤去されたらしい。地図上ではまだ存在しているのだが・・・。

Cimg1067 小湊川へ向かう線路跡。ただし、鉄橋は既に撤去されている。

Cimg1110Cimg1111 上の2枚の写真は新雷電橋の上から撮影したものである。上が小湊駅側、下が小湊港側である。鉄橋は黄色線のように架かっていた。
この鉄橋は、かつて私も見たことがある。ただ、そのときはこれが鉄道の鉄橋だとは思ってもいなかったが・・・

Cimg1072 今度は、C地点から清水川駅方向の線路跡を進む。
C地点からしばらくは線路跡は県道夏泊公園線として利用されている。線路跡を旧道のバイパスとして利用したものだ。

Cimg1074 地図E地点で、県道は右へ曲がるが、線路跡は直進する。

Cimg1075 線路跡は、砂利道となって残っている。線路跡は築堤となっており、、左側の道路よりも一段高くなっている。

Cimg1081 地図F地点である。線路跡は草薮の中に入っていく。地面は水溜りとなっている上に、草が生 茂っているためにこれ以上進むことはできない。右に砂利道が続いているが、この先に家が1軒あるだけである。E地点からF地点まで途中には家がなかったか ら、線路跡はこの家のためだけにあるようなものである。

4 小湊岸壁

ここで線路跡を離れ、小湊港へ向かう。
途中には白鳥の飛来地として有名な浅所海岸がある。青森市周辺で子供時代を過ごした人なら1度はここを訪れているだろう。

Cimg1104 私もこれまで何度となくここを訪れているのだが、これまで連絡船のことには全く気づいていなかった。撤去された鉄橋も視野には入っていたのだが・・・。

Cimg1083 これが小湊岸壁である。突堤は1本だけであり、右側が第1岸壁、左側が第2岸壁である。

Cimg1089 岸壁が微妙にカーブしているのがお分かりだろうか。これは、連絡船の船形に合わせたものらしい。

Cimg1091 今この辺りは小湊漁港となっているのだが、漁船用としてはこの岸壁は高さがありすぎて使えないため、釣り人専用の状態となっている。

Cimg1085 岸壁の沖合いにコンクリートの四角い構造物がある。

Cimg1090 それを拡大したのが上の写真。昭和21年に、コンクリートケーソン2基を海中に設置してL・S・T用の繋船岸壁を作ったのだが、これがそれではないかという話もあるようだ。

Cimg1086 もうひとつ岸壁の隣に、やはりコンクリートの構造物がある。こちらは、コンクリートの台の上に四角いコンクリートを置いているような構造をしている。そ してその右に上部のコンクリートはないものの、下部のコンクリートの台と思われるものがある。もし、この台がケーソンだとすれば、L・S・Tに貨車を積込 んだということからして、ここがL・S・T用の岸壁であったのではないかと思うのだが・・・。

Cimg1093 右が第1岸壁、左が第2岩壁である。船が接岸したときに船体に傷が付かないようにするための木製の防舷材と思われる朽ち果てた木材が岸壁に残っている。

Cimg1094 第1岩壁には可動橋が設置されていた。可動橋は第1岸壁だけで、第2岸壁には設置されなかったらしい。線路も第1岸壁側にしか敷設されなかったようである。第6青函丸の接岸試験を行うためだけに設置されたということだろう。

Cimg1096 線路跡は第1岸壁からまっすぐに延びており、現在は道路となっている。ちなみに、駐車している車は、みんな釣り人のもの。ここに連絡船が接岸したことがあるということを知っている人はどのくらいいるのかな?

Cimg1098 第1岸壁から進んできた道路は地図H地点でニ手に別れる。線路跡は右側である。

Cimg1101 線路跡は小湊川方向へ進んでいく。今では完全に生活道路となっていて、沿道には住宅が建っている。

Cimg1102 ここが、かつて鉄橋のあった場所である(地図I地点)。

さて、小湊岸壁は完成を目前になぜ放棄されたのだろうか?
私は連絡船の大型化に対応できなかったからではないかと思う。

小湊岸壁の工事の最中に、後に洞爺丸台風で沈没する洞爺丸が就航する。小湊岸壁で試験をした第6青函丸が2800トンほどであったのに対して、洞爺丸は 約4000トンであった。この岸壁の規模としては、洞爺丸クラスの船が入港することはおそらく不可能だろう。
小湊~函館航路の再開を求めて陳情活動も行われたらしいが、洞爺丸型の次の最後の青函連絡船となった津軽丸型になると連絡船はさらに大型化し、とてもこのような小さな岸壁に接岸することはできなかったのである。
こうして、小湊岸壁は1度も歴史の表舞台に立つことなく消えていったのである。


 

←青森県内の廃線へ戻る