旧陸軍第8師団山田野演習場(3)

(2)和開トーチカ


山田野廠舎から和開地区にあるトーチカに向かう。
山田野廠舎跡から南に進み、県道31号弘前鯵ケ沢線を弘前方向に進む。建石町で右折して県道39号長平町森田線に入り、しばらく進むと「和開」の標識があるので、そこを右折すると和開地区に着く。

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和開地区の北側にある二ツ森山。山の南側が頂上まで農地になっているのが特徴で、すぐにそれと分かる。

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二ツ森山の頂上に残るトーチカ。
トーチカとは、演習の際に砲弾の着弾地点を観測するためのコンクリート製の陣地で、正確には「観測掩壕」、「監的壕」と呼ばれる。
このトーチカは、1935(昭和10)年の特別機密演習のために構築されたといわれている。

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トーチカは、南側に出入口があり、東、西、北の3方向に観測用の細長い窓が開いている。
動画も作成したので暇なときにでもどうぞ。
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(3)猿沢トーチカ

和開トーチカから猿沢トーチカへ向かう。
和開地区から県道39号長平町森田線へ戻って南に向かい、県道30号岩木山環状線を弘前方向へ向かってしばらく進んだ後、左折して砂利道を北に進むと猿沢トーチカに着く。
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道路から見るとこんな感じで、夏草に覆われていて、一見してこれがトーチカだとは判りにくい。
和開トーチカはコンクリート製であったが、猿沢トーチカはコンクリートの構造物の上に土が被せられて擬装されている。

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北側からトーチカに接近するが、コンクリートは全く見えない。

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南側に回ると、草の間からわずかにコンクリートが見え、観測用の窓が確認できたものの、全体を把握することは難しかった。ここは、草のない時期を選ぶ必要がある。

参考までに、これが草のない時期のトーチカの姿。南側だけに観測用の窓がある。

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旧陸軍第8師団山田野演習場(2)

(1)山田野廠舎跡

山田野廠舎跡へ向かう。
山田野廠舎の面積はおよそ5万坪と言われ、兵舎などの建物が建っていたが、戦後、跡地は開拓されて農地となり、廠舎のあった一帯は、現在では「北開拓」と呼ばれている。

※廠舎とは、屋根だけで壁がない仮の建物。特に軍隊が演習の際用いる宿泊施設。露舎。

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上の地図は山田野廠舎の現況図で、「山田野-陸軍演習場・演習廠舎と跡地の100年-」から引用したもので、ピンクの文字を加筆している。

道沿いに山田野廠舎の杭域に入って行くと、まず目に入るのがA地点の井戸である。
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非常に深い井戸だったようだが、現在は埋められており、コンクリートの井戸枠と釣瓶の基礎が残っているだけである。

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B地点にある「旧第9号兵舎」。北側から撮影。
現在は、農機具の倉庫として使われている。

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「旧第9号兵舎」を南側から撮影。
山田野に廠舎が建てられたのは1907(明治40)年前後とされており、1911(明治44)年5月に火災で焼失し、同年に再建されており、この「旧第9号兵舎」はその時に再建されたと推定されている。
今年で建築後104年になるわけで、実際傷みも激しい。

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「旧第9号兵舎」の全景。
「旧第9号兵舎」の大きさは、間口が7.5m、奥行きが68mある。
演習場が現役の時代は、この兵舎が12棟あり、1棟には200名程度収容できたようだ。

旧陸軍の平時編成では、歩兵1個中隊は、将校5名、下士官10名、兵卒120名、看護手1名の136名(戦時編成になるとこれよりも人数が増える場合がある)であり、この兵舎1棟で歩兵1個中隊を収容できた。(ただし、将校は将校宿舎を使用する。)
1個連隊は12中隊で編成されていたので、12棟の兵舎でちょうど1個連隊を収容できた。

戦後、演習場が開拓地となると、山田野廠舎の建物は、まずは入植者の住居として使用された。
その後、学校用の建設資材として転用されたり、入植者に払い下げられたりする過程で、多くの建物は失われていく。
しかし、この第9号兵舎は、1947(昭和22)年にこの地に新設された「東鳴沢中学校」の校舎となったことで解体を免れ、1960(昭和35)年に鳴沢中学校に統合されて閉校するまで校舎として使用された。
その後は、近隣の住民に払い下げられて、一時期は豚舎として、現在は農機具置き場として、50年以上使われ続けてきたのである。

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これは、C地点にある旧将校宿舎である。
現在は物置となっているが、近年まで住居として使われていたようである。

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廠舎の敷地の東側。道路の左に低い土塁があり、その上に木が植えられている。

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1975(昭和50)年の空中写真でみると、山田野廠舎の周囲には木が植えられ(おそらく土塁もあり)周辺と明確に区画されていたようである。

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これは、D地点の正門跡である。夏草に覆われているが、ここだけ土塁が切れており、木も植えられていないので、門があったと分かる。

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正門跡を進んでいくと、旧衛兵所が残っている。正門に立つ衛兵の待機場所だったところである。
もともとは木造だったようだが、住居として使われている間に、壁にモルタルが塗られ、屋根はトタン葺きに改造されている。

次回に続く。

旧陸軍第8師団山田野演習場(1)

山田野演習場とは、明治時代に旧陸軍第8師団が兵士の訓練をするために岩木山の北麓に設置したもので、敷地は5000ヘクタールを超える広大なものであった。


なお、記事の作成に当たっては、「山田野-陸軍演習場・演習廠舎と跡地の100年-」を一部参考にしている。(上の地図の演習場の範囲も同書を参考にしている。ちょっといい加減だけど・・・)

演習場の北側には山田野廠舎(演習の際に兵士が宿泊する施設)が設置され、兵舎12棟(1棟当たり200名程度収容)のほか、将校宿舎、衛兵所、炊事場、風呂場、酒保(売店)、厩舎などの建物が建設された。
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上の空中写真は1948年にアメリカ軍が撮影したもので、建物もまだほとんどが残っているように見える。

戦後は、演習場の跡地は開拓地となり、現在は広大な農地が広がっているが、山田野廠舎の建物を含め、演習場時代の遺物が残されている。

さて、スタートは、JR五能線の鳴沢駅。
駅前に停めてある黄色いバイクは、現在の愛車「クロスカブ」。廃線・廃道を訪ねるときは、未舗装の道路が結構あるので、スクーターよりはカブの方が適している。今回は、この広大な演習場跡地をクロスカブで走る。
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鳴沢駅は、1925年(大正14年)5月15日、五能線の陸奥森田 – 鰺ケ沢間開通と同時に開業。当時は駅周辺には人家がなかったらしく、山田野演習場のために設置されたといっても過言ではない。
「雨ニモ負ケズ」で有名な宮沢賢治は、この年の9月に、演習に参加していた弟の清六に面会するため、鳴沢駅に降り立っている。
駅舎は、開業以来80年以上も使われ続けたが、2012年に現駅舎に改築され、当時の面影は全くない。(旧駅舎はこちらのサイトに写真がある。

駅前の道路をしばらく左に進むと、「つがる市」の標識がある。
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山田野廠舎へはここを右折するのだが、もうちょっと先まで行ってみると、五能線の踏切がある。


戦後70年、踏切の名前はいまだに「兵舎踏切」である。
かつて、ここに山田野演習場があったという証拠がここにもあった。

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ちょうど、五能線の「キハ40系」が来たので、ついでにパチリ。

次回に続く。