コラム~津軽線交差説を検証する

NEC Direct

1 津軽線交差説について

瀬辺地のページでも触れたが、津軽森林鉄道と旧国鉄(現JR東日本)津軽線が、蓬田村瀬辺地付近で交差していたという説がある。これを、以下「津軽線交差説」と言うことにする。

rintetsu-map

津軽森林鉄道路線図(「全国森林鉄道」(JTBキャンブックス)より引用)

左の図は、「全国森林鉄道」(西裕之著/JTBキャンブックス/2001年発行)の津軽森林鉄道の項に掲載されているものである。この図を見ると、津軽線は青森駅を出てまもなく津軽森林鉄道と交差し、蓬田村で再び津軽森林鉄道と交差しており、津軽線交差説を採っていることがわかる。
この本は、全国の森林鉄道の開設年・廃止年、全長等が網羅されており、森林鉄道のバイブルとも評されている。私のホームページを訪問していただいている方の中には、この本を既にご覧になった方も多いと思う。
この本の中では、この図の出典については特に言及されていないのであるが、西氏が採用するほどであるから、森林鉄道の研究者や愛好者の間ではかなり認知されている説なのかもしれない。

一方、同じ出版社から発行されている「鉄道廃線跡を歩くⅥ」(宮脇俊三編著/JTBキャンブックス/1999年発行)では、私の津軽森林鉄道の歴史のページの図(昭 和41年国土地理院発行20万分の1地勢図))と同じように、青森市内で1度交差した後は、瀬辺地付近で交差はしていない。こちらに掲載されている図は平 成9年国土地理院発行の20万分の1地勢図に津軽森林鉄道の軌道を書き込んだ形になっている。私が現地を調査した結果からも、津軽線と津軽森林鉄道が瀬辺 地付近で交差している形跡はなかった。こちらの説を便宜上「津軽線非交差説」と言うことにする。

kannaizu

「青森県管内図」(昭和29年7月1日改訂有限会社交洋社):二邑亭駄菓子様提供

ネット上で、情報収集をしていたところ、以前にも紹介した二邑亭駄菓子様のサイト津軽半島の森林鉄道(跡)の ページに津軽森林鉄道の路線図があるのを見つけた。この図も津軽線交差説によるものである。ただ、これには出典が明記されており、「青森県管内図」(昭和 29年7月1日改訂 有限会社交洋社)とあった。そして、二邑亭駄菓子様から提供いただいたのが左の図で、縮尺は20万分の1である。二邑亭駄菓子様に は、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
この地図とその名称を見ると、青森県が昭和29年に有限会社交洋社に発注して作らせた管内図ということのようである。地方自治体が作成したということ は、かなり信憑性の高いものであると言えるだろう。津軽線交差説もこの地図が元になっている可能性がある。

津軽森林鉄道と津軽線は、本当に瀬辺地付近で交差していたのだろうか。


年会費無料のクレジットカードなら「楽天カード」

 

2 20万分の1地勢図にみる津軽線建設の推移

大正11年(1922年)に鉄道敷設法が改正され、同法別表で敷設すべき予定鉄道線路として149項の路線が盛り込まれた。そのうち、「ニ.青森県青森ヨリ三厩、小泊ヲ経テ五所川原ニ至ル鉄道」として規定されたのが、後の津軽線(青森-三厩)とストーブ列車で有名な津軽鉄道(五所川原-津軽中里)である。
残りの津軽中里-小泊-三厩間の鉄道は結局建設されなかった。私鉄である津軽鉄道の開通は昭和5年(1930年)であったが、国鉄であった津軽線は青森-蟹田間が昭和26年(1951年)に開通、蟹田-三厩間は昭和33年(1958年)に開通した。
国土地理院(前身の参謀本部陸地測量部、地理調査所を含む。以下同じ。)が発行する地図で、最も早く津軽線が登場するのは、昭和15年発行の20万分の1帝国図「青森」(下図参照)である。これを見ると青森から蟹田まで「建設中の鉄道」として記載されている。津軽線は、少なくとも昭和15年以前に予定線から建設線に格上げされ、予定ルートも決定し、一部では工事(用地買収も含む)も始まったと考えられる(調査不足で申し訳ありません。このあたりの経緯に詳しい方がいらっしゃいましたら教えてください。)。

S14aomori
昭和15年発行帝国図
(昭14年要部修正)
S26aomori
昭和26年発行地勢図
(昭26年応急修正)
S41aomori
昭和41年発行地勢図
(昭36年編集)

昭和15年発行の帝国図を見ると、建設中の津軽線は「玉松」付近で津軽森林鉄道と交差していることがわかる。なお、この地図は、大正13年に製版した地図を、昭和14年に「要部修正(鉄道、道路、埋め立て地など、大きな変化ではあるが面積的には狭い範囲を修正すること。)」したものである。つまり、大正13年の地図に、建設中の津軽線などを記入して修正したということである。

次に昭和26年発行の20万分の1地勢図を見ていただきたい。この地図が発行されるまで昭和15年以降3回の修正が行われているが、基本的には大正13年の地図のままである。この昭和26年の地図も「応急修正(戦 争によって現状にあわなくなった地形図を、昭和23年から28年にかけて、米軍が撮影した空中写真等を利用して修正を施した。)」したものであるので、基 本的には大正13年の地図である。昭和26年は津軽線が蟹田まで開通した年であり、津軽線が建設中の鉄道からおなじみの鉄道記号に変わっている。ここでも やはり津軽線と津軽森林鉄道は瀬辺地駅の南で交差しているが、津軽線の経路は昭和15年の地図と全く同じと言ってよい。当初の計画どおり線路ができたので あれば、当たり前のことではあるが・・・。

続いて、昭和41年発行の20万分の1地勢図を見ていただきたい。この地図は昭和26年の地図の次に発行されたものであり、昭和36年に「編集(大 きい縮尺の図を基に、小さい縮尺の地図を作成すること。)」されたものである。20万分の1の地図は、それ自体測量して作られるものではなく、5万分の1 や2万5千分の1地形図を基に作成される。この地図の場合は昭和36年に5万分の1地形図から作成したということである。この地図を見ると、津軽線と津軽 森林鉄道は瀬辺地駅の南で交差していない。

これら3枚の地図を比較して素直に言えることは、「昭和26年に津軽線は津軽森林鉄道と瀬辺地駅の南で交差して開通したが、昭和36年までに交差しないように線路を引き直した。」ということになる。

3 5万分の1地形図にみる津軽線建設の推移

20万分の1地勢図が既存の地図を編集して作成されるのに対し、当時の5万分の1地形図は実際の測量成果に基づいて作成されていた(現在は5万分の1地 形図も25000分の1地形図から編集されている。)。下に示した4枚の地図は蟹田付近の5万分の1地形図であるが、「蟹田」と「油川」の2枚の地図を合 成している。上約3分の2が「蟹田」、下約3分の1が「油川」である。発行年等は「蟹田」と「油川」では多少異なっているが、発行年等は「蟹田」のものを 使用し、「油川」は「蟹田」の発行年の直近のものを使用している。

T6kanita-r S21kanita-r S29kanita-r S41kanita-r
 大正6年発行
(大正3年測図)
 昭和21年発行
(昭14年修正測量)
 昭和29年発行
(昭28年応急修正)
 昭和41年発行
(昭39年修正測量)

5万分の1地形図「蟹田」が最初に発行されたのが大正6年である。その次に発行されたのが昭和21年で、この間約30年地図は更新されなかったのである。注目すべきは、昭和21年発行の地形図の修正時期である。昭和14年「修正測量(時代の変化に対応して、空中写真や現地調査を元に変化した部分を地図の全範囲について修正すること。)」とある。上記の昭和15年に発行された20万分の1帝国図と修正時期が同じなのである。津軽線について見ると、建設中の鉄道となっており、瀬辺地付近で津軽森林鉄道と交差はしてない。また、20万分の1では何も記載されていなかった蟹田から先についても建設中となっている。
次の昭和29年発行の地形図ではどうだろう。この地図は津軽線が蟹田まで開通した後に修正されたものであり、蟹田以南がおなじみの鉄道記号となっている。蟹田以北はまだ建設中である。また、瀬辺地付近で津軽森林鉄道と交差してはいない。また、その次の昭和41年発行の地形図では、津軽線が全線開通しているのがわかる。昭和21年と比較してみると、津軽線が計画通りに建設されたことがわかる。
それでは、この間、津軽森林鉄道に変化は見られるのだろうか。大正6年の地図から昭和41年まの地図を比べてみると、変化はみられないと言ってよい。

5万分の1地形図を比較した結果からは、「津軽線と津軽森林鉄道は瀬辺地付近で交差することはなかったし、津軽線建設に際して、津軽森林鉄道の路線等には変化がなかった。」ということになる。

4 津軽線と津軽森林鉄道は交差していたのか

同じ国土地理院発行の地図であるのに、比較した結果は20万分の1と5万分の1では異なるものとなった。それでは、どちらが正しいのか。結論を先に言おう。5万分の1地形図が正しく、津軽線と津軽森林鉄道は交差していなかった。これは、現地調査の結果とも一致している。
では、その理由を述べよう。まず、その前提として、5万分の1地形図の比較及び現地調査の結果から、津軽森林鉄道は建設当時からその位置は変わっていないということ、そして津軽線は後から建設されたということを理解していただきたい。そうすると津軽線交差説の矛盾点が見えてくる。

ア 交差しなければならない理由はあるのか
津軽線が後からできたのであるから、交差しなければならない理由は津軽線の側にあるはずである。蟹田駅を過ぎると、津軽線は北へ、津軽森林鉄道は西へ進路を取る。すると、蟹田駅の先で再び交差する必要がある。前述の青森県管内図では、やはりそのようになっている。三厩までの工事が最初から決まっていたのであれば、初めから交差しないのが当然であろう。

イ 蟹田駅の位置の問題
蟹田駅は昭和26年の津軽線の開通とともに設置され、その後建替えられることもなく同じ場所にあるのは確かな事実である。
津軽線と津軽森林鉄道が交差した場合、蟹田駅はまさに蟹田土場の中に作られたことになる。営林署の敷地の中に駅を作るというのも変な話だが・・・・。
その後交差しないように改めるするとと、蟹田駅自体は移動していないのだから、津軽森林鉄道がルートを変更したことになる。
ところが津軽森林鉄道も建設当時からその位置は変わっていないわけで、明らかに矛盾している。

ウ 線路を引き直した可能性はあるのか
短期間で線路を引き直すような雑な建設計画はあり得ないだろう。もし仮にあったとすれば、線路を引き直さないと何か重大な障害があるというような場合に限られる。

以上のことから、20万分の1地勢図については、昭和41年以前に発行されたものは、津軽線が明らかに間違って記載されている。また、昭和29年発行の青森県管内図も同様に間違っていると断定するものである。

5 津軽線交差説を推理する

それでは、間違いであるはずの津軽線交差説がなぜ広まってしまったのか。その理由について考えてみることにする。

まず、20万分の1帝国図が発行された昭和15年という時期について考えてみよう。
この時期、津軽線と同じく鉄道敷設法別表に「一.青森県田名部ヨリ大畑ヲ経テ大間ニ至ル鉄道」の一部として、下北-大畑間が昭和12年に着工し、昭和14年から大畑線として営業を開始した。そして残りの区間が未成線として有名な大間鉄道である。
大間鉄道の建設が急がれた背景としては、当時大間は津軽海峡防衛のため砲台が置かれ、弾薬の輸送など軍事面で鉄道が必要とされたためである。また、青函 連絡船が航海中に敵の攻撃を受ける恐れがあった(ちなみに、昭和20年7月にはアメリカ軍艦載機の攻撃により青函連絡船は全滅している。)ので、その代替 航路として、本州と北海道を最短距離で結ぶため、大間と北海道側の戸井(こちらも未成線として有名な戸井線(五稜郭-戸井)がある。)の間に連絡船を運航 することも想定されていたと言われる。
津軽半島の先端にある竜飛崎も大間と同様に津軽海峡防衛ため砲台が置かれていたが、MKNJ様のサイトに よれば、竜飛崎が津軽要塞地帯に編入されたのが昭和10年12月、砲台の工事が始まったのが昭和11年4月、完成したのが昭和12年12月であり、まさに 下北で鉄道建設が始まる時期に重なる。津軽線もまた、大間鉄道と同様の理由で三厩までの建設が急がれていたと考えられる。
また、大間や竜飛は要塞地帯として、一般人の立ち入りが厳しく制限されていたようである。また、近くを通過する青函連絡船から写真撮影することは厳禁であった。
太宰治は小説「津軽」の中で「三厩から波打際の心細い路を歩いて、三時間ほど北上すると、竜飛(たつぴ)の部落にたどりつく。文字どほり、路の尽きる個所である。ここの岬は、それこそ、 ぎりぎりの本州の北端である。けれども、この辺は最近、国防上なかなか大事なところであるから、里数その他、具体的な事に就いての記述は、いつさい避けな ければならぬ。」と書いている。

現在の常識としては、国の機関である国土地理院が作成した地図は非常に信頼性が高いものであり、誰も嘘が書いてあるなどと思っていないだろう。。
ところが、第2次世界大戦まで日本の地図を作ってきたのは陸軍参謀本部であり、当時は国防上の理由から、軍事施設や軍事機密に関わるようなものは地図に 記載されないのが当たり前であり、軍事施設のある場所を公園として記載するなど、平気で嘘をついていたのである。
したがって、軍事上重要な施設であるというだけで、大間鉄道も大間の砲台も地図に載ることは一切なかったのである。

以上のことを念頭にして、津軽線について考えてみよう。

昭和21年発行の5万分の1地形図により、昭和14年当時すでに津軽線の実施設計は完成しており、建設工事の段階に入っていたことは明らかである。5万 分の1地形図と20万分の1帝国図は同じ組織=参謀本部陸地測量部で作成されており、20万分の1の担当者は当然その事実を知っていたはずである。それな のに、蟹田から先の予定線を地図に載せなかったのは、それが軍事機密に当たると判断されたからに違いない。
それでは、なぜ津軽線と津軽森林鉄道を交差させたのか。私には担当者の単純なミスとはどうも考えにくい。これは故意に間違ったのではないだろうか。
これは全くの私の想像であるが、蟹田から先の計画がないことを印象付けるため、蟹田駅を津軽森林鉄道の山側に配置して、津軽森林鉄道によって津軽線が進路を塞がれるように見せかけた。そのためには、一度津軽線と津軽森林鉄道を交差させる必要があったのである。このような操作をしても、まだ完成もしていない鉄道のことであるから実害はないであろう。

そして、戦争が終わり、地図の作成は参謀本部陸地測量部から地理調査所という新しい組織に引き継がれた。地図にとっても戦後は混乱期であり、各種地図の修正作業に追われることになる。津軽線が開通した昭和26年はまだこの混乱期の最中である。
ここからも私の想像であるが、ここで地理調査所の20万分の1の担当者は1つのミスを犯した。津軽線が蟹田まで開通したという情報を知った彼は、昭和 15年発行の20万分の1帝国図の中の津軽線をそのまま建設中から完成済みへ修正し、新しい20万分の1地勢図として発行してしまったのである。この地図 がかつて故意に間違えられたことを知らずに・・・。その後、この地図は、昭和41年まで15年間に渡って販売されることになる。

この間、この地図は様々なところで活用される。昭和29年に発行された青森県管内図もそのひとつである。自治体がこのような地図を作る場合は、普通は地 図業者に発注をする。地図業者は自前で測量するわけにはいかないので、国土地理院の地図を複製することになる。青森県管内図のような地図であれば、20万 分の1地勢図を利用するだろう。その際には、測量法第29条及び第30条の規定により、国土地理院の複製又は使用の承認を受けなければならない。すると、 国土地理院の地図が仮に間違っていたとしても、複製であるから地図業者又は自治体が地図を勝手に直すということはできない。結果として、青森県管内図は元 の20万分の1地勢図の間違いをそのまま引き継ぐことになった。この状態が昭和41年まで続くのである。この間にどれだけの地図が出回っただろうか。

昭和41年に新しい20万分の1地勢図が発行され、ようやく間違いが訂正されたのも束の間、その翌年、昭和42年には 津軽森林鉄道が廃止されてしまう。その後は森林鉄道は地図上から消え、森林鉄道が記載された地図そのものが発行されなくなってしまった。その結果、研究者 が古い地図を求めると、間違った地図だけが出てくるということになったのではなかろうか。そして、これらを資料として、様々な研究や書物が発表され、津軽 線交差説が広く世間に知られるようになったのであろう。


→次へ(津軽森林鉄道の思い出)

←戻る(津軽森林鉄道年表)