津軽森林鉄道の思い出

P1000767 津軽森林鉄道が廃止となった昭和42年、当時私は小学3年生でした。津軽森林鉄道が実際に走っている姿を記憶している最後の世代と言ってもいいかと思います。
当時、母方の伯母の家が青森市沖館の「津軽森林鉄道碑」がある辺りにあったので、伯母の家に遊びに行くたびに、ゴトゴトと音を立てながら木材を積んでゆっくりとした速度で走る森林鉄道を見ることができました。
国鉄の車両に比べたら遥かに小さな車体の森林鉄道は、まるでおもちゃのようでした。
津軽森林鉄道を運行していた青森運輸営林署もすぐ近くにあり、中に入って止まっている機関車を見せてもらったりしたこともあります。
ですから、先日開かれた「津軽森林鉄道写真展」で上の写真を見たときは、とても懐かしく、ちょっと曖昧だった記憶も鮮明に蘇ってきました。

P1000721私の家は青森市内でも東側にあったので、伯母の家に行くためにはバスに乗って行くのですが、バスは国道280号を走り、伯母の家の手前で青森営林局の前を通ります。
右の写真も「津軽森林鉄道写真展」で展示されていたものですが、営林局の周囲には製材所や貯木場があって、国道の北側にはいつも大量の木材が積まれていました。
まだ小学生だった私は、この大量の木材が、津軽半島の奥地から森林鉄道で運ばれてきていたなどということは全く知りませんでしたが、よくもこれほどの木材があるものだと感心したものでした。

Cimg0154私のもうひとつの津軽森林鉄道に関する思い出としては、野木和公園内を走っていた森林鉄道です。
野木和公園は、青森市内の桜の名所で、幼いころ私も何度か花見に行ったことがあります。
左の写真はかつての森林鉄道の軌道跡です。当時はここは切通しになっていて、軌道は今の地面より3mほど低いところを通っていました。
前方に橋がありますが、当時軌道の上に架かっていた橋の位置に、モニュメントとして再建されたものです。
私は、野木和公園に来ると桜よりも森林鉄道を見ることの方が楽しくて、この橋の上から森林鉄道を見ていたものでした。
津軽森林鉄道が廃止されたときも、今だったら大勢の鉄道マニアが訪れて写真を撮るという光景が見られたと思うのですが、津軽森林鉄道に関しては全くと いっていいほどなかったようです。そのために、津軽森林鉄道の現役時代の写真というのは、営林局が撮影したものがいくらかあるだけで、ほとんど残っていな いようです。
廃止になるときも何かイベントが開かれたという記憶もないし、時代の波に押されてひっそりと消えていったという感じでしょうか

昭和39年に東海道新幹線が開業して以降、昭和40年代前半というのは、日本の交通システムの一大転換期だったと思います。
青森を例にすると、鉄道は東北本線が昭和43年に電化されて、線路が南方に移転しました。私の家は廃止になる前の浪打駅に近いところにあって、蒸気機関車が黒い煙を吐きながら国道4号沿いを走っていて、子供のころよく見にきたものでした。
また、このころから道路の舗装率がどんどん高くなってきて、砂利道がアスファルト舗装へと変わっていきました。40年代の初めには、まだ馬車が道路を 走っている光景をよく見たものですが、自動車やオート三輪が増えていく中で姿を消していきました。
こうした時代の流れの中で、木材の輸送も森林鉄道からトラック輸送へと切り替えられていき、青森県内では昭和45年を最後に森林鉄道はすべて廃止されてしまいました。

津軽森林鉄道が廃止されてからは、私の頭の中には廃止前の記憶がかすかに残っているだけで、その後30年以上も過ごしてきたわけです。
あるとき、ふと地形図を見ると、青森営林局付近から北に向かう1本の道路が存在していることに気付きました。すぐに森林鉄道の跡だと直感しました。
これをきっかけにして、津軽森林鉄道のことを調べ始めて、今まで調べたことをこのホームページで公開しているという次第です。
今では青森市民でさえ、かつて森林鉄道があったことを知る人は少なくなっています。かつては林業の一大拠点だった青森市ですが、今では海外から輸入される木材がわずかにある程度。
森林管理も木材の生産から、今では世界遺産白神山地をはじめとして、森林の保護という面が強くなってきています。
このホームページを見て、少しでも津軽森林鉄道に興味をもってくれる方が増えてくれれば幸いです。


 →歴史・コラムへ戻る

←戻る(コラム~津軽線交差説を検証する)