高森鉱山鉄道(その2)

東栄鉱山

開明鉱業所でなければ、果たして誰が鉱山鉄道を敷設したのか?
候補として新たに登場したのが、鉱山軌道の終点にあったとされる東栄鉱山である。

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青森市の東部に位置する東岳

東栄鉱山があった青森市滝沢地区は東岳の麓にある。東岳は青森市の東部に位置する山で、山腹に木の生えていない部分がある。これは大正時代から操業していた石灰石の砕石場の跡である。東岳の登山道には石灰石を運ぶためのトロッコの軌道跡が今でも残っている。

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東岳登山道に残るトロッコの軌道

このトロッコの軌道は、大正3年から昭和35年まで石灰石を採掘していた藤田組(後に同和鉱業(株)に社名変更)の野内採石所のもののようである。藤田組は、東岳から野内駅まで索道を架設して、採掘した石灰石を運んでいた。

青森市史、青森県史等をみると、東岳では明治時代からいくつかの鉱山が操業している。市史の資料の中に明治・大正期における鉱業の動向といった資料 があり、鉄、銅、石灰石、花崗岩などが産出しており、東栄鉱山(鉄)、東嶽鉱山(黒鉱)、磐城セメント(石灰石)などの名が見える。、また、「仙台鉱山監 督局管内鉱区一覧」という資料の明治45年から大正15年までを調べてみると、、東嶽鉱山、瀧澤鉱山、太盛鉱山等の名前がある。

東栄鉱山については、新青森市史の中に「東北鉱山風土記」からの出典として東栄鉱山の記事が載っている。これによると、「東栄鉱山の位置は、青森市の東方10km、東北本線野内駅から東南方8kmにあり、即ち青森野内間の国道の中間に在る野内橋から南方に県道を進み、東岳村馬 屋尻・三本木部落を経て滝沢に至り、之より林道1kmにして事務所、選鉱場、住宅の所在地に達す。此処より更に北方1kmにして探鉱場に達す。」とあり、事務所、選鉱場の位置は鉱山軌道の終点と一致しているとみられる。
また、この資料によると、大正時代に試掘されてその後廃鉱となっていたところ、昭和11年に関規方が鉱業権を譲り受けて銅の採掘を始めたという。
昭和15年と19年の「東奥年鑑」にも東栄鉱山の記述があるほか、青森空襲を記録する会のサイト内にある青森県学徒勤労動員一覧を見ると、県立青森高等女学校の4年生が昭和18年8月9日に東栄鉱山へ動員されたとの記述があり、東栄鉱山は鉱山軌道が運行を開始したとみられる昭和15年には確実に存在していたことが認められる。

状況証拠からみて、鉱山軌道を設置したのは東栄鉱山にほぼ間違いないと考えていたのだが・・・。

ついに鉱山鉄道の正体が判明

先日、乙供駅から上北鉱山を結んでいた坪川林道(乙供森林鉄道)について調べていたところ、偶然に「青森市東岳における鉱山史」(島口天、青森県立郷土館研究紀要 第35号 2011.3)という論文を見つけた。

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東岳で稼行した鉱山及び鉱床の位置と関連施設(青森市東岳における鉱山史より)

この論文によると、鉱山軌道の終点付近に東栄鉱山があり銅鉱石を採掘していたが、鉱石は夏季はトラック、冬は馬そりで野内駅に運び、汽車で秋田県八森町の大日本鉱業発盛精錬所に送られたということである。つまり、東栄鉱山は軌道を利用していなかったのである。

高森鉱山

それでは、鉱山軌道は誰が敷設したのか?
答えはこの論文の中にあった。

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青森市東岳における鉱山史より

さて、論文によると昭和10年代の東栄鉱山周辺の状況は上の図のようなものだったようだ。

東栄鉱山の近くを上北鉱山の索道が通っているが、これは上北鉱山と野内駅を結ぶもので昭和13年に完成(延長約19km)し、鉱山からは鉱石を、野内からは食料品や日常生活用品等が運ばれた。私が子供の頃はまだ現役で動いていた。

問題は、もうひとつの索道、高森鉱山索道の方である。
高森鉱山は上北鉱山に隣接していたようで、昭和10年から操業を開始している。ちなみに上北鉱山の操業開始は昭和11年である。
論文では、「鉱業 青森市誌・東津軽郡町村誌」(今田清蔵編、1977年)からの引用として、「高森鉱山は昭和10年から青森市の高森鉱山株式会社が経営し、既知鉱脈の探鉱、有力露頭の開発・試錐、青森市からの送電設備・浪打駅を起点とする鉱石運搬用専用軌道及び索道の建設、更に青森駅構内における鉱石運搬用専用軌道の計画、そして現在(※昭和15年)、滝沢に選鉱場が建設中で、鉱山では10月に小学校が建設中、鉱夫宿舎・病院を近日中に完備、11月末には新設索道が完成する。」と記述されている。
また、「この軌道については、渡辺(1944)(※「青森県東栄、大日本野内両銅山産瀝青銅鉱と粘土状銅鉱」(渡辺萬次郎、1944年))に 「(東栄鉱山の)事務所のすぐ西には、高森鉱山の事務所があって、それから野内、青森間の浪打駅までの約11kmの間軌道を通じ、目下使用を中止中ゆえ、 これを利用し得ば一層便である(昭和18年夏の状態)。」と記載があることから、高森鉱山から鉱石を運ぶものであったことがわかる。また、昭和26年に株式会社塔文社から発行された「青森市街図」には、浪打駅から東に延びる「高森鉱山鉄道」が記されている。
昭和18年夏の段階で軌道が使われていないことから、高森鉱山はこの頃には上北鉱山と合併したと推測している。

なお、高森鉱山について、論文では上北鉱山と合併したとしているが、「休廃止鉱山鉱害防止事業の新たな方向性」(平成22年6月 原子力安全・保安院 鉱山保安課)という資料の中で、鉱害防止義務者不存在鉱山(上北鉱山は義務者存在)に分類されているところから、上北鉱山と合併せずに、廃鉱となった可能性もある、。

高森鉱山鉄道

以上のことから、鉱山軌道は高森鉱山によって敷設されたものだったのは確実と思われる。今後はこの鉱山軌道を「高森鉱山鉄道」と呼ぶこととする。
私としては、東岳にある鉱山が鉄道を敷設したと思い込んでおり、他の場所にある鉱山から索道によって鉱石がここに運ばれ、鉄道に積み替えられたとは全くの予想外だった。

戦後の高森鉱山鉄道の様子については、I氏からも情報をいただいている。
昭和21年生まれのS氏には軌道跡にレールがあった記憶はなく、I氏の兄2人(昭和12年生まれと15年生まれ)は終戦直後までトロッコで遊んだそうである。

このことからすると、高森鉱山鉄道は昭和18年夏頃までには運行を休止し、その後運行は再開されることなく、終戦後レールが撤去されたとみて間違いないだろう。

高森鉱山鉄道についてまとめてみる。
・軌道を敷設したのは、青森市にあった「高森鉱山株式会社」
・運行開始は、昭和15年8月1日(浪打駅が貨物の取扱を開始したことによる)
・昭和18年夏までに高森鉱山は廃鉱となり(若しくは上北鉱山に吸収され)、高森鉱山鉄道は運転休止となった
・その後運転は再開されることはなく、戦後レールが撤去された。

高森鉱山株式会社について

鉱山軌道を開設したのが高森鉱山だということが分かったが、それはどのような会社だったのか。

高森鉱山は昭和10年から青森市の高森鉱山株式会社が経営しているとされているが、青森市からの送電設備・浪打駅を起点とする鉱石運搬用専用軌道及び索道の建設、滝沢に選鉱場を建設、鉱山に小学校、鉱夫宿舎・病院を建設するなど、高森鉱山はかなりの資本を有する会社と思われ、地方の中小企業レベルではあり得ない。

高森鉱山についてネットで検索しているうちに、神戸大学付属図書館が開設している「新聞記事文庫」というサイトで、面白い新聞記事を見つけた。

大阪毎日新聞 1936.8.29(昭和11)
わが日本肥料界の覇者たらんとする”朝日化学肥料株式会社”
(引用開始)
今や我国肥料工業は重要肥料統制法を中心として混沌たる状態にあるが、然るに尼崎に本工場を有する朝日化学肥料株式会社は是等世相を超越して悠々理想の実現に邁進しつつある。同社を統轄する専務取締役佐古田政太郞氏は常に肥料が農業経営資本の四割にも及ぶ重大性に鑑み、唯農蚕業者の福利を計り、以て製品は最高適良の品位、最低の価格をモットーとして鋭意社業の進展と社会的貢献に努力と払っている。
第一に同社の特長としては最近完成した初島の理想工場である。即ち過燐酸石灰、重過燐酸石灰、化成肥料並に硫酸等の製造工程が総て自動的機械化されて居りしかも機械が全部最新式である点より見て正に東洋一の設備にて業界の一大権威といわねばなるまい。
第二には販路の優越なる点を挙げねばならない、即ち郡是製糸との姉妹会社たる関係上、内地、朝鮮を通じ養蚕家約五十万戸桑園反別十万五千町歩の確定地盤を占有し同業者間等しく羨望の的となっている。
第三に同社が採掘に着手した青森県高森鉱山は今や本格的に作業に着手し目下青森港に対し空中索道建設中である。地質は主として第三紀に属する凝灰岩よりなり、鉱床は前記凝灰岩中胚胎せる黄銅鉱、黄鉄鉱床で種々の型状を産出するも同社の採掘着手せる結果、黄鉄鉱の塊状鉱床で殆ど黄鉄鉱よりなり、微量の金銀及び黄銅鉱斑銅鉱を含有し、□石としては少量の石英及び重晶石を伴い黒鉱鉱床中、黄鉱に属するもので将来黒鉱鉱床の発見を期待されている。本鉱床に対しまだ探鉱不十分のため、その型状詳かでないが両坑道間には露頭点々と露白し、露頭及び坑内の情況よりみるに延長六百メートル幅員六十メートル以上の楕円形をせるものの如く下部に対しては延長の五分の一として百二十メートル、幅員四十メートルは確定的で、鉱量を計算せば台千参百万瓲の計数を得、殊に品位は無選鉱で平均含銅二%、硫黄は四九%であって硫化鉱飢饉の今日大いに祝福に価する。
第四に数うるものは営業成績である。同社は過去十数年間佐古田氏の個人経営であったが昨年八月郡是製糸と合併して株式会社に改め、創業今や第一期の決算を間近に控え配当最低一割三分と豪語している。而して洩聞する処によると不日五百万円に増資の計画中である。
第五に同社の生産能力である。現在は第一期計画に属し、配合肥料、化成肥料、過燐酸等合して年三十万噸を産し、近く第三期計画完成後は現在の約三倍の巨大なる能力を有する殊になる因に社長は奥村鹿太郞氏である。
(引用終了)

この新聞記事から、高森鉱山を経営していたのは、兵庫県尼崎市にある「朝日化学肥料株式会社」であること、同社は「郡是製糸」と合併して株式会社化されたことがわかる。郡是製糸とは現在も存在する繊維メーカーのグンゼ株式会社であり、当時の繊維メーカーは日本の主要な輸出産業であり、郡是製糸は当時すでに日本有数の大企業であった。
また、代表者佐古田政太郞専務が尼崎商工会議所初代会頭を務めるなど、朝日化学肥料株式会社も尼崎の有力企業だった。
この資本力があればこそ、高森鉱山へ豊富な資金を投入できたのであろう。
朝日化学肥料株式会社は、同時期に、高森鉱山のほかにも、沖縄県波照問島での燐鉱採掘、栃木県の越路鉱山での銅、鉄を採掘などを行っていたようである。

同社は、その後紆余曲折を経て、現在も「朝日工業株式会社」として存続している。

朝日化学肥料株式会社の年表
1935年 郡是製絲株式会社(現在のグンゼ)の子会社として、兵庫県尼崎市に創立。
代表者 専務取締役 佐古田政太郞(それ以前は、佐古田政太郞の個人経営)
1941年 佐古田政太郞が尼崎商工会議所初代会頭となる(~1942)
1945年 国土計画興業株式会社(後のコクド)に吸収され、尼崎工場となる。
1949年 国土計画興業株式会社から肥料部門を分離し、尼ヶ崎化学肥料株式会社を設立
1950年 尼崎肥料株式会社に商号変更
1955年 朝日化学肥料株式会社に商号変更
1960年 日本ニッケル株式会社の鉄鋼部門を吸収、西武化学工業株式会社に商号変更
1985年 朝日工業株式会社に商号変更


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