はじめに
これまで「青森市内に残る鉱山軌道跡」として公開していた記事について、その後の調査結果等により、この鉱山軌道が「高森鉱山鉄道」と呼ばれていたことが判明したので、全面的に書き直すことにしました。
調査の過程で、幼少期にこの鉱山軌道の近くで育ち、現在は千葉県にお住いのI氏から、鉱山軌道や鉱山についてメールで貴重な体験を伺うことができました。改めてお礼申し上げます。
未知の軌道との出会い
新潮社から発行されている「日本鉄道旅行地図帳」シリーズには、廃止された旅客鉄道の全廃線が掲載されているほか、廃線となった森林鉄道や鉱山鉄道なども掲載されているということで、廃線マニアの間で話題となっている。
一応廃線サイトを運営している私も、第2号の東北は発売と同時に購入した。
そして、北東北の地図を見てみると、青森市周辺の拡大図が載っており、そこには私が今まで全く知らなかった廃線が2本あった。
1本は、浪打駅と堤川(貨物駅)を結ぶ路線。調べてみると、この線は昭和19年6月から昭和21年10月までの2年余存在し、その目的は北海道からの石炭輸送を強化するために堤川河口部に設けられた石炭の荷揚げ場から、石炭を浪打駅まで運ぶというものだった。
そして2本目が、今回レポートする「鉱山軌道」だ。
この地図によると、鉱山軌道が国鉄の旧浪打駅から野内川と小川目沢の合流点付近までを結んでいるが、国土地理院の昭和21年発行の地図(昭和14年修正測量)で確認してみると「鉱山用軌道」という名前が確認できる。このルートを現在の地図に表示すると以下のようになる。
また、終点付近の昭和50年の空中写真をみてみると、
明らかに鉱山の跡と分かる斜面上の構造物、鉱石を堆積していたと思われる広場、そしてそこに繋がる鉱山鉄道の跡が確認できる。
全国鉱山鉄道の記述
鉱山鉄道に関する書籍としては、全国鉱山鉄道 (JTBキャンブックス) がある。さすがに鉱山鉄道は守備範囲外だったので、さっそくアマゾンに注文して取り寄せた。
これによると、この鉱山軌道は青森市滝沢にあった開明鉱業所が所有していたもので、軌間は508mm、蓄電池機関車でトロッコを牽引していたようだ。ただし、開業、廃止の時期については不明。
開明鉱業所を経営していたのは秋田県内の鉱山を主として経営していた大日本鉱業だが、この会社はすでに存在しない。
私が調べた資料の中で、初めて「開明鉱業所」の名前が登場するのは、地元の新聞社が発行している昭和33年版「東奥年鑑」である。その記述は「本年度に入って、(一部省略)、大日本鉱業が東岳地区で開明鉱山の探鉱を開始し、有望な鉱床を把握した。」というものだ。
昭和34年版でも同様の記述が続き、昭和36年版で「開明鉱山が青森市東岳地区で有望な鉱床を発見、35年11月選鉱場を建設して本格的な開発に乗り出した。」と記述されている。
そして、昭和39年版で「昭和37年からの不況の波は新規鉱山として有望視されていた開明鉱山を閉山させるに至った。」との記述があり、昭和38年度の青森県の鉱業生産が開明鉱山の閉山等により大幅に減少したという趣旨の記事が載っている。
すなわち、大日本鉱業の開明鉱業所が存在したのは、昭和33年から昭和38年までのわずか5年間であったということだ。それも本格的に操業したのはわずかに1年余りという短命な鉱山だったようだ。
ここで問題となるのは、昭和21年発行の地図にこの鉱山軌道がすでに存在していることである。国土地理院の5万分の1地形図「青森東部」を調べてみると次のとおりであった。
・大正4年6月30日発行(大正元年測量)・・・・鉱山用軌道存在せず
・昭和17年5月30日発行(昭和14年修正)・・・鉱山用軌道存在せず
・昭和21年11月30日発行(昭和14年修正)・・鉱山用軌道が存在
(途中省略)
・昭和32年1月30日発行(昭和28年応修)・・・鉱山用軌道が存在
・昭和40年1月30日発行(昭和37年修正)・・・鉱山用軌道存在せず
昭和17年発行の地図は戦争中という特殊事情により鉄道を故意に記載しなかった可能性があるが、鉱山軌道は少なくとも昭和14年までには完成し、昭和37年までには廃止されていたということになる。
また、鉱山軌道が接続する浪打駅は、大正13年に開業し、貨物の取扱いを始めたのは昭和15年8月1日である。
すると、昭和14年修正測量の地図に路線が描かれているいることと併せて、この鉱山軌道の開通に合わせて浪打駅が貨物の取扱いを始めたということが推測される。
以上のことから、「全国鉱山鉄道」でこの鉱山軌道の持ち主とされる開明鉱業所は、最後のオーナーであった可能性はあるが、設置者ではあり得ないことが分かる。
I氏の証言
開明鉱業所について、冒頭で紹介したS氏から次のような証言を頂いた。I氏は昭和21年生まれで、鉱山軌道の沿線にある三本木地区で育った方である。
開明鉱山(住友系列)の記憶
昭和30年頃私が小4、5年生のお盆の頃開所祝いで滝沢分教所の校庭で花火を大分揚げた思い出があります。
兄15年生まれが高校卒業直後開明鉱山に入社しました。当時市内から早朝と夕方市営バスが鉱山まで走っていました。
この社宅が件の東栄鉱山の選鉱のずり捨て場(航空写真にドームの建造物が写っている)から数百m上手にありました。
住民は秋田県人でした。私が中学1年の頃転入して来たと思います(青森市立東岳中学校 ちなみ宮田小学校 滝沢分校)。
私が高校2年生の頃閉山になったと思います。中2の時遠足が鉱山見学で全生徒が参加し削岩機用巨大モーターに驚きました。
鉱山は社宅から小川目沢方面で月光の滝で途中休息しました。
この証言からわかることは、
・開明鉱業所は昭和30年以降に創業したこと。
・鉱山鉄道の終点にあった建物は、東栄鉱山の選鉱のずり捨て場であること。
・開明鉱業所は全く別の場所にあったこと。
以上のことから、この鉱山軌道と開明鉱業所は全く無関係であることが明らかとなったといえる。どうやら、「全国鉱山鉄道」の間違いの可能性が濃厚である。
開明鉱業所はどこに?
それでは、開明鉱業所はどこにあったのか?
S氏の証言に沿って、空中写真で探してみると、1962年の空中写真にその痕跡がはっきりと写っていた。
県道123号線清水川滝沢野内線を清水川方面に向い、大清水沢を過ぎた辺りに鉱山の跡が見える。これを地図でみると、
中学校の遠足で、途中、月光の滝で休息し、鉱山見学をしたという証言とぴったりと一致している。
現地を確認すべくバイクで向かう。
この県道123号線は冬季閉鎖路線で、今年閉鎖が解除になったのは何と6月25日だった。
途中、月光の滝に寄ってみる。それほど大きな滝ではないが、信仰の対象となっている。
県道123号線もこの滝までは結構人の出入りがあるので舗装されているのだが、ここから先は砂利道となる。オンロード用のバイクでは結構厳しかったりする。
おそらくこの辺り一帯が鉱山であったと思われるのだが、完全に自然に戻ってしまっていて鉱山跡は確認できない。
一方、道路を挟んで向かい側には人工的な平場が存在している。空中写真でも平らに削られた跡がみられるので、これがその一部かもしれない。現在は木材置き場として使われているようだ。